현재 위치

Home > 密陽紹介 > 歴史

歴史

三韓時代

  • 弁辰24か国中「弥離弥凍国(ミリミドンクッ)」という小さい部族国家であったと推定され、弁韓の領土で伽倻国に属していた。

新羅時代

  • 智証王6年(505年):「弥離弥凍国」を新羅に併合し、「推火郡(チュファグン)」を置いた。
  • 景徳王16年(757年):全国を9州に分けて郡・県の名称を変更した際に「密城郡(ミルソングン)」とし、密州の管内に属させるとともに5つの属県を置いた。

高麗時代

  • 成宗14年(995年):全国を4都護府10道に区分した際に慶州と共に嶺東道に属し、密城郡の格を上げて「密州郡(ミルチュグン)」と改称された。そして、2郡(昌寧郡、清道郡)4県(玄風県、桂城県、霊山県、豊角県)を管轄下に置いた。
  • 顕宗9年(1018年):「密城郡事」と称される。
  • 忠烈王元年(1275年):郡民・趙仟の反乱により鶏林府に属することになるが、後に「密城県」に昇格した。
  • 忠烈王11年(1285年):「密城郡」に昇格した。
  • 恭譲王2年(1390年):「密陽府(ミリャンブ)」に昇格した。

朝鮮時代

  • 太祖元年(1392年):「密城郡」と称されていたが、太祖3年(1394年)に再び「密城府」に戻された。
  • 太宗元年(1401年):「密城郡」となったが、太宗15年(1415年)に住民の戸数が1000戸以上の村はすべて都護府にすることになり、この際に「密陽都護府」となった。
  • 高宗32年(1895年):勅令第98号に基づいた23部制の実施により、小地域主義の採用に伴って道以下の府・牧場・郡・県も廃止となり、全国が36郡に改編された際に「大邱府密陽郡(市地域は府内面)」となった。
  • 高宗33年(1896年):勅令第36号により慶尚南道密陽郡に改称された。

近代

  • 1910年9月30日:朝鮮総督府諸官制の公布に伴い、朝鮮総督府地方官官制が公布され、面制が実施されることになり、1910年10月1日付けで「密陽郡密陽面」となった。
  • 1914年3月1日:面の名称と区域を合併し、12面を置いた。
  • 1931年4月1日:邑制の施行に伴い、府令第103号により大田、順天、安東などと共に密陽面が「密陽邑」に昇格した。

現代

  • 1963年1月1日:法令第1177号により、三浪津面が「三浪津邑」に昇格した。
  • 1966年7月15日:郡条例第103号により、三浪津邑「林川出張所」が設置された。
  • 1973年7月1日:大統領令第6543号により、河南面が「河南邑」に昇格した。
  • 1989年1月1日:法律第4050号により、密陽邑が「密陽市」に昇格し、密陽市(6洞28統316班)と密陽郡(2邑、9面)に分離された。
  • 1995年1月1日:法律第4774号により、密陽市と密陽郡が合併し、「都農複合型の密陽市」(2邑、9面、6洞)が設置された。
  • 1998年9月21日:地方自治法第4条5項に基づく人口5,000人未満の過少洞の統合により、「行政洞の龍活洞を内一洞に統合」(2邑、9面、5洞)となった。